ヒグマの食料不足が原因と考えられています。


ヒグマの大量出没の年に配布

 「ソーセージの悲しい最後」と題されたポストカードを作成、配布しているのは公益財団法人知床財団(北海道斜里郡斜里町)。世界自然遺産である知床の動物や自然環境の保全、管理するための活動を行っています。

 http://www.nyan-wan.com/users/view/214 http://www.rokyu.net/user_information1-58119.htmlポストカードは2012年に配布を開始したものだそうで、現在は、英語版や中国語版も配布しているといいます。

 この2012年は、ヒグマの大量出没の年で、クマに関連するトラブルが頻発していました。要因は明確にはなっていないものの、冷夏による果実の不作や、マスの遡上時期の遅れなど、ヒグマの食料不足が原因と考えられています。

 知床財団によると、少しでもトラブルを減らすために、人間側に働きかける手法として、少し刺激が強い写真を用いて配布することにしたといいます。
エサやり、動物・人間どちらにも良いことはない

 http://gamers.mysns.jp/p/cvnjhfg http://www.otoku47.com/author/cvnjhfg/ヒグマをはじめ、野生動物にエサを与えることには、どんな危険性があるのでしょうか。

 上野さんは、普段自然ガイドをする際に次のように説明しているといいます。

何気ない気持ちの餌やりだったかもしれない。

人に近づけまいとした対策も空しく、小学校そばに現れた彼女は駆除の対象になってしまいました。

 「スコープの中の彼女は、一瞬、あっ、というような表情を見せた。そして、叩きつける激しい発射音。ライフル弾の恐ろしい力。彼女はもうほとんど動くことができなかった。瞳の輝きはみるみるうちに失われていった。」

 http://iralog.nosv.org/b/cvnjhfg/ http://vururu.jp/profile/14615/「彼女は知床の森に生まれ、またその土に戻って行くはずだった。それは、たった1本のソーセージで狂いはじめた。」

 「何気ない気持ちの餌やりだったかもしれない。けれどもそれが多くの人を危険に陥れ、失われなくてもよかった命を奪うことになることを、よく考えてほしい。」としめくくられた文章。この画像を載せたツイートは8月8日時点で、3万回以上リツイートされています。
エサを与えたとされる形跡、月に2~3回ほど

 https://www.wish-note.com/u/cvnjhfg http://www.kouotu.com/user/cvnjhfgこの画像を投稿した上野さんは普段、NPO法人森のこだまの代表を務めています。北海道津別町「ノンノの森ネイチャーセンター」で自然ガイドをするほか、施設の掃除やゴミの撤去など、森の保全のための活動を行っています。

8月31日まで釜石市郷土資料館で開かれています。

1945年7月14日、一度目の艦砲射撃は昼に始まりました。学校に向かう途中だった金澤さんは難を逃れ、家に駆け戻ると父が泣きながら彼女を抱き寄せました。

「母ちゃんが死んだ」ー。

http://garou.net/userinfo.php?uid=414 https://workshift-sol.com/users/view/101050 家の裏にあった防空壕は砲弾の直撃を受け、中にいた9人が亡くなりました。母・タヨさんの体は跡かたもなく、わずかに髪の毛と着ていた着物の一部だけが残っていました。

(金澤さん)「髪の毛が赤い人だった。色が白くてね。髪の毛をひろって箱に入れたと思う・・・父親がどういう思いで箱にいれたかと。それを時々考える」
 
 http://vururu.jp/profile/14613/ http://www.sharedmemo.com/cvnjhfg/金澤さんは悲しい記憶とともにあの日見た太陽が忘れられないと話します。
(金澤さん)「すごく大きなお日様だった。ギラギラ光ってそれが記憶にある赤かったあんなお日様見たことない」
 
 深く刻まれた悲しみの記憶は「語ろう」と心に決めるまで72年の時を要しました。金澤さんの体験記を含む企画展「釜石と戦争」は、8月31日まで釜石市郷土資料館で開かれています。

故郷の野辺地に帰っていた長澤さんは強い衝撃を受けた


 45年8月、九州・五島列島付近で、海面に浮上していた、長澤さんが乗る伊号第363は、米戦闘機・グラマンの攻撃を受け、艦上にいた乗組員2人が撃たれた。

http://www.otoku47.com/author/nbghjub/ http://www.inupic.com/content/users/109 艦は急速潜行し、深度を下げたが突然、ドーンと衝撃が走った。制御が利かず、水深100メートルの海底に突き刺さったのだ。

 操縦部隊が必死に艦を浮上させようとしたが状況は変わらない。

 1時間、2時間…と時間が過ぎ、艦内の温度が上昇。長澤さんは、噴き出る汗をぬぐった。濁った空気が漂い、艦内には「ハア、ハア」と乱れた息遣いが響いた。

 「生きたい」「太陽を見たい」と祈っていた長澤さんも「もう駄目だ」と死を覚悟した。
 その時突然、艦が浮上し始めた。奇跡だった。
終戦から2カ月後の45年10月、伊号第363は広島・呉港から長崎・佐世保へ移動中、宮崎県沖で機雷に触れ爆沈。乗組員34人が死んだ。「せっかく戦争を生き抜いたのに」。故郷の野辺地に帰っていた長澤さんは強い衝撃を受けた。そして、悔しがった。

 http://dream-share.jp/users/profile/504 http://pepakura.info/userinfo.php?uid=1706戦後、町職員となり、家族を持ち、平穏な日々を手に入れることができた。72年たった今、考える。

 敵艦と対峙(たいじ)したあの日、艦長が回天出撃を命じていたら…、潜水艦が海底に突き刺さったままだったら…。毎日のように報じられる朝鮮半島のニュースを見ながら「戦争は二度と起こしてはならない」と心に刻む。